てんはち雑記

400と75から1800になり2000

エヴァ見てきた(ネタバレしないよ)

こんにちは

前置きしておきますがタイトルにもある通り絶対にネタバレはしません。一応推敲もしています。思ったことをのべつ幕なしに書いているだけです。

エヴァ見てきました。エヴァってすごくて、何がすごいかというとオタクが作ったオタク向けなアニメなのに新劇はかなりテレビ放送してて、オタクじゃなくても知ってるみたいなとこです。どこからがオタクなのかはともかくとして、僕の中でのオタクの定義に収まる前から触れてたぐらいの作品です。ですからオタク義務教育というかそんなノリで見に行きました。

感想は面白かったです。

ただ、何が面白かったのかと聞かれるとよくわかりません。感動したのかと言われるとそれもどうだろうという気持ちです。
というか僕は感動という言葉を安易に持ち出す向きが好きでなく、泣きに入る方向などをうまく言語化できないときに用いる言葉になりつつあるのかなという、そういう捉え方をしています。
感動には面白いというニュアンスをもっとぶっこむべきだと思っています。

最近出会った好きな文章があり、ちょっと引用します。
「すなわち、ふつう美術作品が愛される最も一般的なあり方は、ある作品をある人間が心ゆくまで見つめ、その結果、それ以外のどこからも得られないある特別な高貴な感動や喜び、あるいは言葉にならないほどの何かしら周囲までが一変してしまったようなものの見方の変革が得られたとき、その作品は確実に美的・世界観的機能を彼に対してはたしたということである。そのような感動は、実情に即していえば、画布の上に配置された絵具の色彩や線、またそれらによって作られた画的形態などの諸要素の、独特な統一の達成から生じたのである」(抽象絵画への招待 大岡信 岩波新書)
これは美術系の評論文ですが、非常に優れた文章だと感じます。これの前後も面白いのですが、特にここらへんが刺さりましたので引用しました。

つまり何か、ここでは美術作品に感動するとき我々は何に対し感動するのでしょうか。キャンバスの素材ではないですよね。では色か?赤とか青とか色に対して感動するわけではないですね。構図?線の強弱?そうではなく、美術作品を構成する要素全体を見渡したときにこそ感動したと言えるのでしょう。ここでの個、色彩や形態を形づくる線といったものは感動の要素たり得ますが、その源泉ではない、と考えています。

ここから言いたいことなんですが、美術作品をアニメ作品に言い換えてみましょう。つまり個と全体に分けて作品を捉えてみます。ネタバレというとあらすじを見ないとわからないところまで書くというのが多いですが、あらすじはあらすじでしかなく、それが果たす役割はあくまであらすじに過ぎないと言えます。
はっきりと言わせてもらうと、僕はエヴァの考察といったもの、文章や動画に問わず、それらに辟易しています。エヴァと打つとやれ考察だネタバレ注意だのと出てきます。エヴァって情報ぶっこんでくるところあるでしょう。それに対してこれはこうであれはああだといちいち"考察"(チョキの形から人差し指と中指を曲げてる気分です)をしてるのが多く、個人的にはくだらないと思うわけです。

エヴァの面白さはその情報量の多さなのでしょうか。それは作品を構成する要素の一つでしかないと思っています。訳のわからない単語を使ってきたとして、それを完全に理解していなければ楽しめない作品なのか?といえば違いますよね。初見の状態でも面白いと感じるはずです。
エヴァを考察すること=単語をいちいち解釈していくことという潮流に心底呆れています。単語同士をつなげた流れを理解することが考察、面白さを紐解くことにはならず、個に対し少しの理解を得るだけであると言えませんか。これは外国語学習初心者にありがちな勘違いに通ずるものがあります。単語の意味を知ることの積み重ねが文章の理解の一助となる、というものです。

皆さんもご存知の通り、単語と単語の意味をただ知っていることは文意を掴むことには必ずしも繋がりません。文章を理解するためには単語同士の連環にまで視野を広げなければならない、と考えています。自らの母語を話す外国人の言葉に、何かしらの違和感を覚えるのはどういう訳なのか、長く日本語に触れてきた外国人であっても違和感はありますよね。その源泉たるものは理解度の違いとも言えるでしょう。あるいは個人の感性の違いですかね。この単語は俺はこうして使うんだという意識との相違がそうした違和感を生むことに繋がるのではないでしょうか。
確かに考察と銘打たれたものはそれら訳のわからない用語を理解し、積み重ねて行くことである程度の全体への理解を得ているのかもしれません。が、用語単体への理解を重ねたとしてそれが文章のどこに配置され、その前後に何があるのかを考え、全体を理解するに至るような考察というものには未だ嘗て出会ったことがありません。

ここまで書いてあれですが、正確な理解へと至ることが出来る人というのはいるのでしょうか。居るとすればそれは制作者本人だと言えるでしょう。ここはこういう意図でこれを配置したとなるわけですから。
エヴァ考察に嫌気が差している理由というのはそこらへんもあり、意味のない正解を追い求めることが、僕には間違いだとしか映らないのです。

人の思考とはどのように形成されていくのか、環境的な要因に絞りオタクの分野について考えれば見た作品や感銘を受けた作品がその源となるでしょうが、ある作品に感銘を受けるためにはそれを面白いとか感動したとか思わせる別な要素があったわけで、そんなもんはいちいち考えていけるわけもないですよね。
制作者と全く同じ解釈を得るためには制作者とそうした背景を完全に共有する必要があり、時代背景なども考慮するとどう考えても無理があります。例えば小中学校では学年に一組ほど双子がいるという計算になるとどっかで見たような気がしますが、双子ですら思考パターンとか違うでしょう。育ちは同じはずで、ある程度その環境は共有してるはずです。それでも出てくる違いを認めずに、空虚な正しさを追いかけることに意義はあるのでしょうか。


今日弟がエヴァ見てきたそうです。どうだった?と聞くと「あんま面白くなかった」と言っておりました。どういうとこが面白くなかったのか聞いてみると、「話がよくわかんなかったし、なんだか普通な終わり方だった」だそうです。奴は一応アニメ版から旧劇、新劇と全部見てるので、初めて見たエヴァが今回のシンエヴァではないです。
それを聞いてなんだか感心しまして、というのもエヴァってオタク界ではなんだか神みたいな存在になりつつあり、オタク同士の間でエヴァあんま面白くなかったわ、というのはそれなりのハードルを感じるぐらいの作品だと思っています。それに対しあんま面白くないでバッサリ切り捨てたので、やるなーと思いました。映画館に金払って見に行くぐらいですから、これまでのエヴァが嫌いだとか面白くないと感じていたわけではないのでしょうが…
嫌いなものがあるのは好きなものがあることと等価値だと思っています。何でもかんでも好きなんじゃ何も好きじゃないのと同じことだと思いませんか。好きなものはあるし嫌いなものもあり、それには人それぞれ違いがある中で、そうした個人の感性の違いから得た結論を聞いて、色んな視点から見たエヴァを僕は知りたいと思っています。

まとめとして僕の言いたいことですが、我々はもう少し自身の感じたことを尊重すべきではないかと思います。すなわち、先に挙げた意味のない正解を追うのをやめ、作品に対し何を面白いと感じたのか、何がつまらないと感じたのか、そうした部分を考えていく方が楽しいのではないかと思っています。その理解への障害となるのならば難解な部分に自分なりの考察を加えることは有意義だと思いますが、自分なりの考察を制作者の意図とすり替えることはつまらないし、意味もないし、作品を冒涜とまではいかないまでも、個人の感性を阻害するものとなるのではないでしょうか。

作品の真の意味など面倒くさいことは制作者に任せて、そこから何を感じたのかということを考え、時に語りたいと僕は思っています。ですからエヴァを見る際にはこれまでの作品を見て感じたこと、自分なりの解釈を持って臨み、見終わった際には何を思ったのか、その感想をもっと大切にして欲しいと思いました。

以上あくまで主観のものですが、各々作品を楽しめたらいいんじゃないかと思います。

めっちゃ書きましたね、今年一番長いんじゃないですか。次はまたなんか車のことでもやるかなという気持ちです。

おわり